エッセイ表紙

おもいつくまま-1-

おもいつくまま-2-

おもいつくまま-3-

日々徒然-1-

日々徒然-2-

おもいつくまま(2)-1-

おもいつくまま(2)-2-

おもいつくまま(2)-3-

徒然に-1-

徒然に-2-

徒然にっき-1-

徒然にっき-2-

花のワルツ(1)

花のワルツ(2)

花のワルツ(3)

花のワルツ(4)

日々(1)

日々(2)


日々(3)



日々(1)

 日記-1-
 1〜 2015.10.31〜

   

-1-
ただ淡々と生きていくにはどうしたらいいか、なんて言葉が、突然起こってきて、ここに記したわけですが、残された年月を、そのように生きたいと言葉の上でが書いてみても、本心は、決してそうではなくて、もっと世の中とリンクしたいと思うわけです。

食欲が旺盛、とはいってもひところの食べ方からみれば、かなり小食になってきています。とはいっても気持ちは食欲旺盛だから、食べられる量と、食べたい量のあいだにギャップがあると思っています。食欲は旺盛だけど、からだが受け入れない、ということはないが、無理すると、胃に負担がかかっているのが、わかります。

おおきな曲がり角に来ているんだな、と思います。

-2- 2015.11.2

気持が、ようやく落ち着いてきた気がします。
ここ数週間の落ち込みはなんだったんだろう、と思うくらい。
ベートーベンの運命第二楽章が聴こえています。
淡々と、淡々と、時間がながれて、イメージがちらつきます。
今日は雨、午後には上がるみたいだから、外出は午後だ。
お金を出しに行って、ガソリン入れて、灯油を買って、冬準備。
淡々と、時間が流れて、あ、第三楽章、沁みいってきますね。

-3- 2015.11.7

アイフォンを持って散歩に出て写真を撮る。
けっきょく、京都シリーズの反復みたいになった。
平野神社へ到着して、境内にはいり、写真を撮った。
ストレート写真ではなくて、色変換などその場で施しアップだ。

Instagram、Flickr、それにPicasaと三つのアルバムがあります。
同時に、Twitter、Facebookへリンクさせて公開しています。
新しい写真集積サイトで、ぼくは原則一般公開しています。
ニコン、キャノン、それぞれにアルバムを持っています。
それからブログ、ホームページ、それぞれに写真を貼ります。
少部数の印刷書籍にも仕上げていこうとも思っています。

-4-

第八番は悲愴、いま、演奏が始まりました。
ベートーベンのピアノ曲、やっぱりここに戻ります。
テンポの速い曲ですね、狂ったような感じがします。
悲愴な気持ちって、こんなに激しいものなのでしょうか。
観音さまを遠くから眺めている自分がいます。
こころ苦しくなって、もう泣いてしまいそうな気持ちです。
でも、これは観音さまが悪いんじゃなくて、自分です。

写真を撮っています。
アイフォーンをつかった撮影で、インスタグラムとプロカメラ。
正方形のインスタグラムが好きな感じがしています。
でも、ズームがきかない、後処理が十分にできない、など。
プロカメラだって、そんなに変換したりしないけど、露出が変えられる。
ズームがききます、長方形です。
パワーショットG5Xも使いだしました、軽いです、2000万画素。

静止画の写真に、気持が込められるかも知れないと思う。
でも、それは、自分が撮って自分が思う思い入れがあるから。
自分の中の劇、自分だけの自作自演、その演劇みたいな。
おもうほどに、人を当てにしたらいけない、そんなもの。
自作自演の劇を公開して、他者の鑑賞にたえられるかどうか。
いよいよ、そんな領域にはいりだしたのかも知れません。
せいかつのかけら、生活の欠片、淡々と淡々と、ですね。

-5- 2015.11.30

金沢の奥の二俣というところに「いわな茶屋」という料理屋があります。
山の魚イワナを養殖されていて、それを料理して食べさせてもらえる。
もう20年以上も前に、とおちゃんに連れていってもらって以来、行きました。
以前は小屋茶屋というイメージでしたが、立派な造りになっていました。
最初にイワナの刺身が大皿に並べられて出てきました。
海の魚に慣れたひとは、川魚は苦手というひとが多いようです。
でも、ぼくは、泥臭くっても、それがいい、苦にならない。
まあ、なんでも食べる、好き嫌いはあまりないです。
イワナの刺身、イワナのからあげ、イワナのてんぷら。
それに山菜の炊いたん、てんぷらにしたん、味噌にしたん。
いまどきの人気メニュー、かなり高級感あふれた、手料理です。

この日は、とおちゃんの17回忌、連れ添いさんの17回忌、その会席でした。
法要は、本泉寺の住職さん、若いころから見てるおひと、白髪になって。
浄土真宗で、わかいころは慣れなかったけれど、最近は、慣れた。
宗教心があるのかと問えば、それは不本意ながら、ないと答えなければ。
でも、70になる自分、宗教心とはいわないが、それみたいな心境があります。
目の前、自分の外の光景を、なにを見ても、うっとり、といった感じです。
それとともに、なつかしい、うつくしい、そんな感覚が生じてきます。
あの世にいったりこの世にいたり、なんかしら夢想のなかに生きてる感じ。
年齢とともに、浮世から遠ざかる、たしかにそうかもしれない、とは思う。
たぶん、若い年代の人たちとは、別の領域を生きているのかも知れない。
今年の後半、おおきな変化が自分のなかに起こって、戸惑ったところです。

-6- 2015.12.13

パソコン環境を新しくしています。
もう5年前に入れたパソコンを最新にするためです。
それからアイフォンを購入して使っています。
なんだか、道具類を最新にするだけで、自分が変わる。
iPhoneを掌にして電車のなかで写真を撮って、SNSにアップ。
そのライブ感に、新しい時代を感じます。
ちょうどいい機会でした。
アルバムもニコン、キャノンから、グーグルとかに変えています。
iPhoneのカメラから、色変換したり、サイズ変換したりで、作品作りです。
模索中、なにはなんだかわからない、けど、まあまあ、楽しんでる。
もう、年末、12月13日、日曜日です。

-7-

年末になりました、今日は25日、クリスマス、それに天神さんの日。
もたもたと、家の中で、過ごしています。
音楽は、ただいまベートーベンの運命、第五番です。
聴き慣れた、懐かしい、10代の頃のことがよみがえります。
メールを送り返そうか、どうしょうか、迷っているところです。
今年は、いろいろ、変化があった年でした。
そのなかでも、いちばん気になったことは、これは書けない。
写真のテーマが、変わってきています、京都は終わった。
その次が出てこないけれど、もう終わったと思っています。
小説や文章を書いてきたが、これも終わった。
パソコン環境を変えました。
最新のバージョンにして、iPhoneを使い出しました。
写真を撮ることにしか使っていませんが、有料カメラだと思って。
ネットを介在させて、を写真を発表しています。
どうなることやら、わからないけれど、現在進行形です。
刹那の記録、とでもいえばいいのでしょうか、臨場感を求めます。
移動するカメラ目線、とでもいえばいいのか、ただし移動範囲は狭いけど。
ぼくの場合は狭いけど、人によっては地球規模で行動できて、痕跡記録です。
朝から、自宅周辺で何枚か撮りました。

-8-

大晦日になりました、暖かい日、晴れています。
朝から、ピアノの周りを掃除しているところです。
手を動かしていると、頭の中は別のことを考えています。
もう半世紀以上も前になるのか、高校一年生の時の大晦日。
なんだったんでしょうね、自転車に乗って、夜の道を走っていました。
ゆっくり、ゆっくり、太秦とか嵐山の近くとか、高校が嵯峨野。
好きな女子がいて、それは帷子ノ辻近くのうどん屋の子でした。
たぶん、会いたくて、その近くへ行っていたように思う。
そのときの気持ちが、よみがえってきます。
むなしいようなさみしいような、いる場所がない感覚です。
その気持ちが、今もあって、記憶を思い起こさせたのかもしれない。
なんかわびしい人生送ってるなぁ、と思ってしまう。
釜ヶ崎へ通った、わけわからない世界へ足突っ込んだ。
恋をした、永遠のイメージを求めてしまうプラトニックラブです。
これがいま、起こっている、起こっていた、いまは退きつつある。
大晦日に、思うこと、いろいろあるけど、成り行き任せにしよう。
まあ、成り行き任せとはいいつつも、我が意思に従うだけだけど。
2015年の大晦日、10:11です、掃除を再開します。

-9- 2016.1.1

新年、あけましておめでとうございます。
という挨拶を、誰にするというのか、あまり挨拶しませんね。
ここら辺、ブログの書き出しに使ったり、慣用語ですね。
ハイドンの交響曲をかけ出しました、珍しいでしょ?
いつもはベートーベンの交響曲が多いけど、たまに違うの聴きます。
チャイコフスキーの交響曲を少し聴いて、ハイドンへやってきた。
最近はオーケストラ演奏の音楽を聴くことがが多いです。
ひところはピアノの曲も重くて、繊細なバイオリンに傾斜していたけど。
変わるんですね、その時々の体調ってゆうか、心のあり方に由来してる?

元旦、朝から、平野神社、椿寺、北野天満宮と巡ってきました。
朝食には白梅町でなか卯の卵焼き朝食をとりました。
いささか旅行気分というところですね、ぼくの気持ち。
昨年の出来事が、もう遠くへ行く感じにしたいと思っています。
夏頃から、恋をして、深みにはまってしまって、錯乱してしまいました。
なにもできなくて、文章も書けなかった、写真も撮れなかった、言葉を失った。
でも、ゆるやかに、それらの感覚が戻ってきているようにも思えます。
また、小説仕立ての文章を書こうか、とも思うところです。
今年70歳になる、老人だ、からだは老体、きもちは瑞瑞しく、です。

-10- 2016.1.9

五輪真弓、いま、スピーカーからその歌声が流れてきています。
なつかしい、なんだろ? よく聴いた、1980年ごろ、まだレコードでした。
30年ぶり、一気に記憶がその時代へ、引き戻されます。
朝に、稲垣さんから電話があって、福島みずほさんが釜へ来る。
来るから写真取材できないか、との話があって、躊躇したが行くことに。
写真の講座の方は、けっきょく、今日、明日と立ち会いをあきらめた。
釜ヶ崎は一方で越冬闘争期間で、フェースブックに記事が載っています。
稲垣さんレベルは、そことは違って、別のグループだから、ぼくは参加しない。

こころが萎えます、こころが落ち込みます。
2016年の幕があいたが、このあとどうしようかと、思案します。
メールの返信も今後ないというメールに、別れの時が来たと思う。
そのときに五輪真弓の曲が、ぼくの耳にはいってきて、こころ救われる。
忘却、忘れ去る、そうして、あたらしい時代がはじまって、そこで暮らします。
春が来る、残り火、聴き慣れた声とメロディーです。
池田氏がゆずってくれたCDからのデジタルデーターです。
CD700枚以上、一テラバイトの大量のデーターから、です。
クラシックが主だけど、同時代に生きた池田氏、何度か話をしています。

こうして、ここにいて、文章を書いていると、こころが少し落ちついてきます。
今朝は、おおきショックで、立ち直れないかと思うほどの落ち込みでした。
悲しくて、苦しくて、辛い気持ちが、あのときも、ありました。
五輪真弓を聴いて、過ごした、日々、30年以上も前のことです。
みゆき、中島みゆき、五輪真弓のあとに聴き出した中島みゆきもあります。
みゆきさん、もう、お別れ、おしまい、そうしよう、それがいい、そうしましょう。

-11- 2016.1.19

写真は、なか卯の朝ご飯セット、250円です。
今年になって2回も食べに生きました。
朝食だから、朝です。
ひところ200円だったのに、値上がりしたんです250円に。
目玉焼きとわかめの味噌汁、それに味付けのりがついています。
この日は、サービス券で小うどんがついてきました。
一人暮らしの練習、なんて笑い事ではなくて、そうなるかも知れぬ。
どうして生きたらいいのか、わからなくなってきます。
初々しい気持ちなんてもうなくなって、それなりに老年の気持ちだ。

音楽を聴いています。
ぼくが聴くのはだいたいクラシック音楽です。
別に高尚なわけではなくて、聴き慣れて親しんだからです。
オーディオ機器にはこだわりません、目の前にあるものでよい。
パソコンを新しいのにして、スピーカーを別に買いました。
欲をいえばきりがないですが、これで十分に聴けています。
こころを休める、癒やされる、もちろんそうゆうことですけど。
そればかりじゃないですね、人生の味を味わいます。
どんな味なんや?なんていわれても、それはぼくの味です。

だいたい悲哀の中に生きてきたように感じています。
生きていて辛いとは思いませんが、気持ちが落ち込むんです。
病気の類に入るのかも知れませんが、医者の診断は受けません。
情緒的で芸術家向き、なんて勝手に思っているだけで、スキルがない。
小説にしても賞をとるほどのものではないし、写真とて同じです。
ちょっと足らんのですよ、なにもかも、突出したものがない。
つまらない人生だった、とは思いたくないけど、そう思うこともある。
あと10年とか20年とか、動けるままに作品らしきモノ、作っていきたい。
たわけめ!

-12- 2016.2.10

今年70歳になる、なんて思うと、ただ事ではないという気持ちになる。
過去が膨大にありすぎて、未来が少ししかない、切羽詰まり感ですかね。
大きな壁にぶつかって、まるで防火扉みたいに重たい感覚です。
なのに女子を好きになってしまう感覚が衰えないんですね。
これ、この感覚は、この年になっての発見といってよいです。
いや、年になって、その年と世間でいう年相応とのギャップです。

からだが枯れることで精神がいっそう瑞々しくなるって感じです。
自分研究を試みているから、その感触をこうして言葉にしているのです。
小説家ならこれを物語に組み立てていくのでしょうが、ぼくにはできない。
構想力がない、構成力がない、物語として組み立てられない。
写真というイメージの集積においても、組み立てられない。
だから、べたな言葉で、べたな写真で、作っているわけです。

若い男の国会議員が、妻が出産入院とかしてる間に、別の女と居た。
こんなニュースが昨日今日マスコミ沙汰になっています、どうしたことか。
多情な男、男なんてそうかも知れない、一夫多妻制だってあったんだから。
情なんてものは、得体知れない本能です。
その本能を枠にはめてしまおうというのが規範ですけど、壊れますね。
いま、制度と性にまつわる欲求がせめぎあってきてますよね。

あの蓮如がかぶったという嫁脅しの面が吉崎に残っているんですね。
5年ほど前に見ました、蓮如って80数歳で女に妊娠させてる?
ほんとかうそかしらないけれど、そんな話があるんですね。
それはまんざら嘘ではないかもしれない、70歳で精子が作られる。
若い時と比べたら極端に少ない量ですが、たぶん無精子ではない。
精子がたまると性的欲求が強くなる、これって男の本能なんでしょうかね。

-13- 2016.2.16

この10年ほど、匿名で小説書きをしてきて、それなりに初期の目的も達成されたか、と。それらはぼく自身の、ネット時代の文学論の一環として書いてきたものでした。純文学ではない、大衆文学ではない、春画をもじって春小説、例えばプルーストのような。紀貫之がやったような、女性が春小説をかいていくことで、作家という人格を創ってみよう。そんなこんなで、春小説は、ポルノノベルといえる範疇で、リアルロマンノベルでした。にっかつロマンポルノ、その前にはパートカラー、いずれも映画館上映の映画群でした。

小説の分野だと、三島由紀夫とか吉行淳之介とか大江健三郎とか、とか、とか。ぼく自身としては、源氏物語、好色一代男、その末裔として、という意識がありました。永井荷風、谷崎潤一郎、そういった文豪たちの範疇から逸脱して、春画ではない春小説。ブログにて新聞小説よろしく連載ものでぶっつけ本番、構成なし、書き放題。なんどもブログを封鎖され、内容はともあれ、写真画像がやばかったのかも。まあ、コンビニの棚にも並んでいるじゃないですか、そのレベルのものです。

けっこうおもしろがって、勝手気ままに、文章を書いたと思っていますが、それらは18禁です。そうではなくて書いた「さくら協奏曲」とか「はなものがたり」、18禁じゃないからアクセス少なし。ネットの裏側に大量にあるアダルトサイトには全くリンクさせていないけど、アクセスはそれなりに。おもしろくて、アクセスが増えると、サイトがつぶされてしまうことが多々ありました。それは、ひとのこころのなかと、あからさまにリンクするから、アクセスが増えるのです。現代人のこころのなかを封じ込めることで、メディアは善良なるメディアとして存在するのです。

ほんとうは、もうちょっと具体的なはなしを書かないと、面白くないわけですが、そんなの書けない。そういう論は、この世には存在させてはいけない、不良メディア、不倫メディア、タブーメディア。でも、21世紀、世の中、面白くしていくのはストイックな現象に対して、エロごとし、春画、春写真。近ごろは、ネットでは、静止画ではなくて動画になってきて、ますます過激になってきています。美しいこの国のなかでは、そんなことは許されなくて、論外、論の外、話題にしてはいけない。社会という枠組みを、その外側から突いてみると、変革が起こる、なのでタブーなのです。

-14- 2016.2.24

モーツアルトってひとは、素晴らしい感性を持っていたんですね。いま、パソコンのなかで処理されたデジタルデーターが、スピーカーから流れ出てきていて、ぼくはうっとり、聴き惚れながら、思い立ってこのブログの、この画面をひろげて、ぼくの心情を書きあらわそうとしているところです。伝わらないな、ぼくの気持ち。言葉で、文字で書き起こしても、心情、気持ちってゆうのは伝わらない、異質のもののように思えています。ぼくは、この心情、気持ちを伝えるためには、どうすればいいんだろうか、と考えてしまうんです。いいえ、考えることじたいが、いけないんだよ、考えることではなくて、感じることではないか。

純粋理性批判なんて書物を書きあらわしたひとがカントという哲学者さん。理性のなかに間違いが生じる原因がある、と解釈すればいいのでしょうか。柄谷行人さんの倫理21という本を拾い読みしながら、なんとかぼく自身の理性を支えようとしている感じです。壊れていくような感覚、けっこう動物的な感覚なのかもしれない、無性に慟哭したくなる感覚。いまさらながら、倫理とか道徳とか、社会とか国家とか国民とか、そういった言葉を見て、読んで、つなぎ合わせて、頭の中でイメージの形にしていくことで、気分の安定を得ようとしている。と同時に、ひとつひとつと言語や認識の皮をめくっていって、文化とか歴史とか、そういった認識から抜け出て、感性だけになっていくことを試みたい。

身の回り、いまパソコンたる道具のまえに座っていて、目の前の棚には書物があってそれらは日本語で書かれてあって、すべてぼくの認識は、そういうことを認知することで成り立っているような気がします。目の前、壁面に取り付けてある三段の書棚の最上段、その左から世界の大思想(河出書房版)が捨てられないまま、いまだに並んでいて、そのなかのカント二冊を取り出してみました。純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判、カントってひとは批判ばっかりしているんですね。それと、永遠の平和のために、なんてタイトルがあります。これらは背表紙に刻印されていて、ぼくはその背表紙を見て書いています。箱に入った書籍そのものは取り出していません。なんだかカントなんて名前をだすと、ぼく自身が偉い人のように見えるんじゃないか。錯覚しないでほしい。

でも、たしかに、自尊心みたいなのがあって、見せかけだけなのに勉強したようなふりをして、張りぼての自分像をつくろうとしています。ほんとうは、その外にいて、そういった理論を捨て去って、ただただ動物的に、ありたいと思っていながら、そういうことを言っている文化を身にまとった人間なのです。自分なんて、国家や宗教や芸術や、もろもろの風土を身にまとったことを自覚して、人間はどうあるべきか、なんて議論に参加しようとしている。そのことじたい、捨て去ってしまうなんてできなくて、いやはや、捨て去ろうとすると寂寞感にさいなまれ、奈落の底に突き落とされてしまう感覚になるから、そこへは行けないな、と思いながら、死ぬときはその気分なのかもしれない、と思ったりして、ああ、逃れたい、逃れたい、反倫理、恥ずかしい自分を発見してしまう。






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最新更新日 2016.7.7

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