エッセイ表紙

おもいつくまま-1-

おもいつくまま-2-

おもいつくまま-3-

日々徒然-1-

日々徒然-2-

おもいつくまま(2)-1-

おもいつくまま(2)-2-

おもいつくまま(2)-3-

徒然に-1-

徒然に-2-

徒然にっき-1-

徒然にっき-2-

花のワルツ(1)

花のワルツ(2)

花のワルツ(3)

花のワルツ(4)

日々(1)

日々(2)

日々(3)

京都物語







京都物語

 京都物語
 1〜8 2016.4.29〜2016.7.7

 

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京都には名所がたくさんあります。神社、寺院、それに風景。西暦794年、いま京都といっている地域に天皇の住居が移された。平安遷都といわれている事柄で、その後、明治になるまでの間、天皇の住居が京都におかれていました。その京都に生まれ、京都に育ち、京都に居住している老齢の男がつづる京都物語です。聞き伝えや見聞したことを書きとどめていこうと思っていますが、これはフィクション、老齢の男の夢想です。短文になったり長文になったり、文体の様式や言い回しなどは統一しません。成り行き任せの、まあ、いっていれば、古事記冒頭のようなイメージを抱いているけど、それには遠く及ばないけれど、書き連ねていこうと思います。はじまりはじまりぃ。

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京都の中心が御所であることはいうに及ばないことだと思います。何故に御所なのかといえば、其処が天皇の住居であったからです。日本の歴史というか、国の生成過程も含め、文字で記されている限り、天皇の存在が中心であるわけです。若い頃には興味がなかった領域ですが、年をとるにつれ、日本文化、日本歴史、ああ、にっぽん、にっぽん、なんてことになってきていることを実感しているんです。小林秀雄が、土門拳が、年とともに深く日本文化に関わる仕事をされたのは、結局、おもうところ、そういう心境になった結果ではなかったか、と思うのです。左翼が右翼になる、といったような単純な構図ではなくて、風土的な要素が含まれて、土着というか精神と土地の気候、風土的なるものが生成されているのではないかと思えるのです。

京都という地名は、京というイメージと都というイメージが合わさった二文字熟語ですかね。京の都、皇居のある処、いま現在は東京に皇居がありますから、都は其処、東京、東の京といっています。京都を中心にした位置関係としての東京です。日本の地名の位置関係、京都を中心とした呼び名が、かなりあるように思えます。越前は、京を越えた地域の前の処、越中は真ん中、越後は後ろ。何に対してといえば京都に対して、ということになります。話は拡大してしまいましたが、京都のなかだけの位置関係に置き換えていきます。平安京が造営されたときは、現在の千本丸太町の西北あたりに大極殿。現在の一条と二条の間です。千本通りは朱雀大路として南北の大通り。この朱雀大路の起点地は船岡山になるといいます。都の方位は東西南北、風水によるといいます。いま速報、演出家の蜷川幸雄氏が亡くなられたとの報です。80才、冥福を祈ります。

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千本通りの中立売を西に入ると商店街になっています。下の森商店街との表示があります。それから一条商店街と続きます。下の森とは、北野天満宮の森のことで、ここからが参道となっていて、鳥居がありました。地図ではなくて言葉で整理してみます。中立売から西に入るその南、仁和寺街道の南に五番町の遊郭あとがあります。商店街を西にいくと七本松通り、そのまま進むと下の森、ここから右へいくのが参道で、まっすぐ行くと一条通り、大将軍商店街、紙屋川にかかった橋を渡ると、そこからが洛外となります。現在は下の森には上京警察署があり警察の官舎となっています。

ぼくの記憶は1950年代から60年代の、この界隈の配置図が頭の中のイメージとしてあって、目に見える写真とか絵画とかはもっていません。鮮明に思い出される光景として、これはモノクローム写真、たぶんそれらの写真をどこかで、散発的に見ていて、そのイメージと実景を見た記憶の像が、ぼくのなかで重なっているのだと思えます。ぼくがいまここで、このような文章にあらわすことにこだわりだしたのは、ぼく自身の拠って立つ自我の根拠を求めて、自分を確認しようとするからです。あえて、自分の根拠を求めて、自己は無いのではなく有るという根拠を求めて、なのです。

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おぢさんがゆうには、タオルを折りかさねるとこうゆう絵になる、図柄をつくってくれました。京都は都で、何事にも中心で、いろいろと細工が施されてきたのだとイメージしてしまいます。北野天満宮の参拝をおえて参道を下っていくと、下の森商店街になります。右(西)に向かうと一条通りでそのまま妙心寺の北門、道なりに仁和寺の山門前、そこを通っていくと右、高雄から美山へと通じる街道になります。左にとると広沢の池から嵯峨に至ります。嵯峨には野宮神社とか、文献に基づいていなくてイメージで追っているので間違いがあるかも知れませんが、天皇が嵯峨へ行くときには、市中から木辻通りを西に向かって、たぶん太秦から帷子ノ辻あたりを通って、女のもとへ参じられたのではないかと想像します。とゆうことで一条通りは通らなかった、といいながら、話はそれてしまいましたが、左(東)に向かうと五番町の入り口になります。そこは歓楽街です。仁和寺街道沿いに一番町から六番町まであって、五番町に遊び場を集めたのが秀吉の命令だったとか、聞いたのですが正しいでしょうか。

五番町は、水上勉さんの小説に「五番町夕霧楼」という題名のがあって、ぼくはそこが遊郭であったことを知る以前に、小説の名前で五番町という処を知った。でも小説は読んでいません。夕子という銘柄の生八つ橋がありますが、この夕子という名前は、その小説のなかの女、ということを知ったのは昨日のことです。もう6年ほども前になりますが、この五番町界隈へ写真を撮りに、何度も行きました。通りから外観を写していたにすぎないのですが、そのうち遊郭だったという館に入ることができて、部屋の中までは撮れなかったのですが、玄関から廊下あたりを撮影することができました。このイメージを基に小説を書いたのが二年前ですか、ぼくのなかのイメージは、ここらへんが基軸になってきそうな気がしています。遊郭といえば、女子がいて男が通って性欲望を満たす場所として公認されていたんですね。いまは、公認されたものはありません。1958年3月に廃止の法律ができたといいます。その場所の区画を赤線といっていたみたいで売春防止法。ぼくは1946年生まれですから12歳、小学校6年生のころでしょうか。小学生のころ、近所の年上の、たぶん17〜18歳くらいのお兄さんから、五番町、五番町、という言葉を聞いた記憶があります。

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京都の産業といえば西陣織が筆頭でしょうか。そもそも西陣織の西陣という名の由来は、応仁の乱、山名宗全の陣地が船岡山に置かれたその麓界隈を指して西陣、そこに織物業が起こったから西陣織というのです。日本の代表的な織物産地です。ぼくの父方の系譜で、戸籍上でわかることは明治の初めの戸籍作成のところで、京都に戸籍があるからそれ以前も京都の人であったと思います。祖母が西陣織で、自宅、住居兼仕事場で、手機(てばた)を織っていました。父は建具師で奉公に出されたと聞いています。父の妹は織屋で機械織りの織子でした。記憶は、昭和30年前後になりますが、そのような系図が、いまわかります。父も祖母も叔母さんもいまは亡くなっているから、すべてぼくの記憶のなかです。

ぼくが育った家の構造を書くとこのようになります。四軒が一棟の中二階建てで間口が真ん中二軒が二間、左右の二軒が一間半。二軒がセットで手機織機が真ん中二軒、左右が住居となっていたようです。ぼくの住居は表三畳の間、奥は土間で六畳、ここに手機機が作られているのでした。その間取りの機を置く処に部屋がつくられ、四畳半でした。この四畳半に親子四人が暮らしていきます。表の間は駄菓子屋になっていて陳列台が並ぶ店でした。二階があって四畳半、中二階で道路側が1.2メートル高さくらいか、奥が1.8メートルだったか。土間の上には部屋はなく、天井から機が設えられるのです。この二階の四畳半に叔母さんが寝起きしていて、ぼくは小学生のあいだ、この叔母さんといっしょに寝ることになりました。

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毎月25日は北野天満宮の縁日で、参道にはテント張りのお店が並びます。家相占いのおじさん、まがい物を売るおじさん、小学生の子供にとっては、この日は、最大の楽しみでした。親からお金をいくらかもらったと思います。10円だったか20円だったか、その程度だと思います。物価は2016年現在の10分の1程度ですね。夜になると、家族そろって天神さんへいきます。本殿のほうからはいって、南へ下っていって、一条商店街から千本中立売に出、そこから北上するのです。家族団欒といえばよろしいか、マリヤという喫茶店へはいってホットケーキやクリーム、父親はぜんざい、母親はパフェ、相場は決まっていて、それは西陣京極の入り口だったと記憶しています。マリヤではなくて、寿司とうどんの店へ入って食事のときもありました。当時の西陣、千本中立売界隈は若い女子でにぎわっていました。丹後とかの田舎から西陣へ来て住み込みで働いていたオリコさん。映画館が東映、大映、松竹、日活、それに洋画館、千中ミュージック、狭い路地に飲み屋が並んでいました。子供だけで遊びに行ける場所ではなかったから、親子でいったというわけです。

一緒に寝ていた叔母さんが、ぼくにとっては突然に、結婚されて、いなくなった。小学校の五年、いや六年になっていたかとも思う。それから、ぼくは、中二階のそこで一人で過ごすことになります。以前、壬生にいたころ和漢薬の店をやっていた名残で、陳列棚がありました。この陳列棚にだったか医学の本があり、避妊の方法などが図解されているのでした。薬屋をやっていたからその方の指導員だったようです。二階には母が嫁入りに持参した洋服箪笥と和箪笥がありました。これはつい最近に処分するまで、そのままありました。その和箪笥の上部の引き違い戸のなかに、雑誌が十冊ほどありました。雑誌の名前は、奇譚クラブ、風俗草紙、ぱらぱらとめくってみて、挿絵や写真があって、驚きとともに興味をもって見ました。小説があって、読めるところは読みました。現在、それらの全ページが資料化されてネットで閲覧できることがわかって、重宝しています。文学少年といったところでしょうか。本はよく読みました、とはいっても漫画が多かったと思います。貸本屋さんへいって借りる、一冊10円でしたか、毎日のように借りに行って、祖母に叱られます。お金がもったいない、というわけです。

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最近、自分の幼少からの記憶をたどってみたい欲求に駆られている気がします。これまでにも何度か自分の過去を振り返るということをやってきたと思っていますが、今回のは、ちょっとちがう。なにがどのようにちがうのかといえば、もう少し記憶と感情の細部を探りだしてみたいと思うことです。これは、非常にプライベートなことだから、それは個人のうちに仕舞われたまま、永遠に潰え去られてしまうことであったと思うんです。でも、で、今の時代、21世紀の初め、個人の感情の記憶を解き明かして、赤裸々なんて表記があるけれど、あるいは告白なんて言い方があるけれど、まさに、それをやっておこうかと思うところなんです。生きるということの細部は、食べて寝て、男なら女のこと、女でもたぶん男のこと、これへの興味が尽きないと思えるので、記憶と感情の深部は、このセクシュアルな側面に照射してみたいとも思っています。直接の動機は古稀を迎えおえた一人の男の歴史と痕跡を感情ともなえて記録しておくこと。今の時代の、人間観察の要請だと思っているところです。

そう、この写真は、男と女、ふたりが結ばれる儀式、結婚式の三三九度の杯をしてるところだと思います。1970年4月28日のことでした。ぼくの24才の誕生日でした。ここへ至るまでの記憶が、ひとつの区切りとなるところでしょうか。1965年に初対面から5年が経過しています。ぼくが生まれたのは1946年、昭和21年4月28日ということになっています。これは戸籍のうえでそうなっていて、たぶん、それに間違いないだろうと思います。そこからさかのぼること10月10日、とつきとうか、というじゃあろませんか、母が妊娠したのがぃっなのかという問題です。昭和20年6月18日、戦争末期とはいえ京都は平穏だったのか。当然、父母は結婚式
を挙げていたはずですが、見合いで一度だけ顔をあわして、ということだったと、たぶん母から、いつのときだったかに聞いたことがありました。当時の母の実家は、烏丸六条の井上和漢薬店、漢方薬を扱う商売を、ぼくからいえば母方祖父が営んでいて、そこの長女で、女にも手に職を、ということで理髪の免許を持ったのでした。そういう関連でいえば、ぼくが18才のとき、運転免許を取らせてくれた口実が、運転免許持っていたら食いっぱぐれがない、ということで、それは大学進学の学費のかわりだったと判断しました。

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カテゴリーに京都物語としていますが、これは極私的な物語です。フィクションではないので物語というより回顧録とかの範疇かも知れない。たまたま、今日、長澤毅さんとの話の中で、平安京のころ紫式部の源氏物語が話題となって、主人公の光源氏は嵯峨天皇の第六皇子で臣籍降下された人物だという話でした。つまり天皇家から民間人になってしまう、ということなのか、ぼくは勉強不足で詳しいことがわからない。なんとなんと、そういえば分からないことばかりで、新しい知識ばかり。でも、その知識が脳に刻まれない、脳が若くはないから、つながらない。ぼくは最近。イメージで見せる「風景論」を試み始めたところなのです。iPhoneで撮った写真を本にして発行、連ねていこうというもの。その大きなテーマが、内なる風景、それが風景論を構成する、という想定です。内なる風景とは、ぼくの思い描くイメージ風景を具体的な視覚に捉えられるブツとして連ねる。連ねることで内なる風景が生成してこないかなぁ、と思うところなんです。内なる風景の基底は「京都」イメージです。ぼくの風土と京都という風土が絡むところを表出できないかなぁ、と思うところなのです。

2008年からぼくは京都を主題に写真集ホームページをつくりました。試行錯誤のプロセスを公開の中で実行していく、というネット時代の表出方法として捉えていました。でも思いとは裏腹に、思うほどにはイメージが創出できていないように思えます。二つめのホームページは、別の方法で写真を載せていますが、それほどまとまっているわけではない、と思っています。なにより、自分がとって自分が批評的に並べるという作業そのものが、わけのわからない蟻地獄に陥ってしまうのです。このようにしておよそ八年間、京都を主題に写真を撮り、表出させてきたところですが、けっきょく鏡面を撫でているだけで、内面といえるところへは踏み入れられていない。この断定が、いま、2016年7月の結末じみたものです。さて、とすれば、ここから、どのように展開していけばいいのか。過去の延長ではなくて、新しい方法、つまり内容の表出方法をイメージの中に表出させなければならないのです。内面の核心に触れられるかどうか、そもそも内面とはなにか、という定義も必要なのではないか。文学史上で風景の発見、内面の発見、という構造の中での内面だと想定しています。この場合、内面とは、作者の思うイメージのこと、でしょうか。




写真集<京都>

最新更新日 2016.12.22

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